以前に「ユートピア・シンドローム」という誰しもが持ちうる人生の症状について書いたことがあります。
記事の概要はこうです。
「人は実際には起こりうることのない奇跡のような人生を望んでしまう傾向があり、いつの間にかそれに固執してしまうと、人生は苦しみの連続になる」
というもの。
ユートピア・シンドロームについての記事は
こちらからどうぞ。
そして実際の人生は、様々なことを繰り返しながら生きていくものです。
ユートピア・シンドロームには、こういう現実を受け入れたくないという要素があります。
リアルな人生とは、常にどの場面でも誰かと共に在り、または誰かと共に在ろうとし、出逢い、そして別れたりもします。
縁を左右できるものではなく、縁は自然と訪れます。
そんな中でパートナーとなる人を見出せたなら、その人ととても幸福なときを迎えたり、不用意な発言や行動がお互いを苦しめてしまったり、ふとした拍子にまた許すことができたりして、またいつの間にか何かを共にしたりする。人は人との生き方を学んでいきますが、どれも完璧にうまくいく生き方はない。そうやって複雑かつ多様な人間関係を構築しつつ、長い年月を過ごしていきます。
私はキリスト教信者ではありませんが、キリスト教式の結婚式では、聖職者より、次のような貴い誓いが読み上げられます。
「健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか?」
これをさらに要約し、私はこう解釈しています。
「うまくいっているときも、そうでないときも、お互いの価値を見出しながら時を過ごしていきますか?」
以前に私の母がこんなことを言っていたことがあります。
「夫婦というのは、この人で良かったと思えたり、こんな人絶対別れてやると思っても別れられなかったり、いろんなことを繰り返しながらいつの間にか時を過ごしていくものよ」
父親は口数の少ない人ですが、いつもこう言っています。
「人生いろいろある」
熟年の夫婦の言うことというのは本当に有難いものだと思います。
これは何も夫婦に限ったことではありません。人生すべてに関わることです。
願うことができるなら、すべてがうまくいっているときだけで人生が進んでいけばどれだけ素晴らしく楽だろうか。そんな風に思うこともあるでしょう。
でもそうやって長い人生のすべてを終えていく人など、一人も居ないと思います。
全てがうまくいくだけという「あり得ない現実」ではなく、この世の実際の人生そのものとどう向き合って生きていくのかが、ある意味「人らしい生き様」なのではないかと思うわけです。
良い時も悪い時もあり、苦しいときも楽しいときもあり、愛を信じて信頼できると思ったら愛にやぶれたりもする。でもそんな人生を救うのもまた誰かの愛であり許しであったりするわけです。
理想を求めるのではなく、ただあるがままの人生をどう生きるのか、そういう考え方が人生を前に進めてくれることもあるようです。理想的な目標こそ必要なのだという考え方からすれば、逆説とも言えるでしょう。
このようなことを僭越ながら申し上げたのは自戒の意味もございます。
読者の皆様にとって、何かの参考になれば幸いです。
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