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(心理カウンセリング)

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    • 2020.10.17 Saturday
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      [心理カウンセリング] ブログ村キーワード

       

      少し前、知り合いの精神科医の方とお酒の席を同席させていただいたことがありました。

       

      そこでの対話が、私にとってセラピー(心理カウンセリング)とは何で、何を大切にしていかないといけないのかについて、とても考えさせられるものとなりました。

       

      お話の中身は、精神科医様の守秘義務に抵触することを避けるため、患者様との話はほんのちょっとのことでも内密にさせていただきますが、今回のことで改めて私の心の中に沸き起こったことが、今回の内容になります。

       

      そもそも欠けてしまいがちな視点とは

       

      心理カウンセリングをさせていただいてると、悩みが解決に向かう中で、何が解決に大きく関与しているのか、私なりに思うところがあります。

       

      それこそが、この世界の多くに欠けている視点なのではないかと思う部分なのです。

       

      それは「実際にはどのように機能しているのか」という視点です。

       

      私達が生きている社会には、多くの問題解決法がありますし、教育や成長、人間関係、心理などについて、これが良いという理論など、山のようにあります。

       

      しかし、その理論を試してみたときに、それが実際にはどのように機能するのか、やってみないとわかりません。

       

      言い換えると、未だ私達の生きる世界は、思い通りに起きることを予測できる程、うまくいってはいないのです。


      しかり、それだけ言っても、わかりにくいかと思いますので、今回は、精神科の診断書という一つの例を使って、詳しく説明させていただきます。

       

      また少し長くなるかもしれませんが、心理に関係している方や、深くお悩みを抱えていらっしゃる方は、是非ともお読み下さい。

       

      精神科医の診断書は役立つのか

       

      今回、精神科医の先生と話していて、盛り上がったテーマ。

       

      精神科医の診断書

       

      それは、心理問題を抱えるクライアントにとって、診断書はいつ役立つのかという点です。

       

      診断書を、"役立つのか、役立たないのか"と語るのは、少し違和感を感じるかもしれませんが、これが今回お伝えしたいことに大きく関わっている内容なのです。

       

      先ず、精神病や心身症を診断されるとはどういうことになるのか考えてみましょう。

       

      診断された本人は、「何か普通じゃない感じがしてたけど、やっぱりそうだったのか」ということになり、苦しみにラベルが貼られ、そのラベルについて余計に深く悩んでしまうかもしれません。

       

      それとは逆に、診断されることによって、「病気なんだから仕方がない」と楽になれる人も居るでしょう。

       

      それは相談者(患者)本人の性質や、置かれている環境によって大きく変わってくると思います。

       

      もっと言うなら、本人が、「周りからどう思われるのか」によって随分意味が変わるのです。

       

      その扱いは国やそれぞれの所属する人間関係の文化によって変わってくるものだとは思います。

       

      そして筆者が知るところでは、周囲からこのように思われることが多いのではないかと、推察しています。

       

      何か大変だけど、どうして良いのかわからないもの

       

      未だ、この社会における精神病の扱いはあまり認知されていません。

       

      もし、心の問題に悩む本人と相手をするにしても、それを救うコミュニケーションは何で、逆に苦しめてしまうコミュニケーションが何なのか、わからない方が多いは実際のところでしょう。

       

      もしかすると、実際に診断された方の周囲の人の中には、自分の不安怖れが増してしまう方もいらっしゃるかもしれません。

       

      「正直、私は危害を加えられないだろうか」

       

      などと感じてしまう方も居るかもしれません。

       

      心理カウンセラーとしては言うべきでない発言かもしれませんが、仮にそうであっても、筆者はおかしいとは思いません。

       

      それよりも逆に、そういった反応を相談者本人が浴びる可能性があるということが視野に入っている方が、実際の援助には役立ちます。

       

      今回お読みいただいている方も、そう感じるでしょうか。

       

      仮にそうなってしまったなら、どのような影響が出てくるのか、もう少し解説します。

       

      人間の性質の一部には、違和感のあるものを排除したいという傾向がある

       

      これは心理の世界に仕事をさせていただいていると、強く感じられる人間の性質なのですが、多くの場合、人の集団は自分の中で理解できない存在に違和感を感じると、それに恐れや不安を抱き、排除しようとする傾向があるようです。

       

      もちろん、皆がそうではありませんが、そういうパターンはとても多く存在しています。

       

      このことを、太古の時代から歴史的に解釈するなら、集団が生き抜いていこうとき、違和感のある個人を入れておくことは、生存の危機に直結していたのかもしれません。

      まだ野外に少数民族として暮らしていた時代なら、容易に想像できますね。

       

      このことについて私個人は、デビルマンという漫画の中で、周囲が悪魔と一体化したデーモンという人類の新種に違和感を持ち、殆どの人が排除しようとした中で、デーモンは悪い奴じゃないかもしれないと言った主人公の交際相手が、魔女として扱われ、酷い仕打ちを受けるシーンが思い出されてしまいます。

       

      デーモンを積極的に排除しようとしない彼女が、周囲の人からは、不安と恐怖の対象者になってしまったわけですね。

       

      その漫画のイラストをご紹介したいところですが、公開で画像として取り上げるにはショッキングな内容ですので、ここでは控えさせていただきます。

       

      しかし、その結果として悪魔と一体化した主人公(デビルマン)が残した言葉だけでも、何かを物語っていると感じますので、そちらの画像を載せさせていただきます。

       

      俺は身体は悪魔になった…だが人間の心は失わなかった。きさまらは人間のからだを持ちながら悪魔に!悪魔になったんだぞ!

       

      現代の社会ニュースなどもそうですね。

       

      陰湿で凄惨的な事件が報道されると、そこに込められた悪がそうさせたと捉え、それを排除する為にはどうしたら良いのかという観点で、更に報道が上乗せされていくという感覚が、この時代になっても感じるのは、なんとも言えません。

       

      しかし、こういう筆者の話もまた、そうなってしまう人々を悪く言っているように思って欲しいと言っているのではないのです。

       

      どうあがこうと、まだまだ人々は、集団になると、そういう性質を持ってしまうものなのです。

       

      「本当にはそう思わない。でもここで生き抜く為には、私が所属する集団の意識に協調性を見せておく必要がある」

       

      そう考えることは多いもの。

       

      それを責めるのもナンセンスだと筆者は思っています。

       

      居場所を失うことは、誰であっても大きな問題なのです。

       

      診断書の価値がそうであって欲しいと願うこと

       

      もちろん、診断書が出たとしても、その影響が悪い方へばかり向かわせるわけではありません。

       

      職場の心ある人々が、そこまで至ってしまった経緯に関心を持ち、深く話を聞いて心を癒やしてくれるかもしれません。

       

      積極的にその人の為に何ができるかと模索してくれるかもしれません。。

       

      何もできないと知っていても、せめてその心を理解してあげようと、優しさが増すかもしれません。

       

      誰であってもそういった美しい話を聞いたことは、一つや二つではないでしょう。

       

      筆者自身も、そうでありたいと願っています。

       

      診断書を出す側も、もらう側も、そんな願いが少なからずあるのではないでしょうか。

       

      そのことは、おそらく医師にもある程度あるのではないかと思っています。

       

      ただ、筆者がこの記事で伝えたいのは、全ての人がそういう肯定的な反応をするわけではないという実際面なのです。


      そうであって欲しいと願うことと、実際にそうなるということとは、いつも少し違う側面があるのでしょう。

       

      診断書が役立つタイミング?

       

      こういったことをベースに話を戻しますと、最初の話が少し伝えやすくなります。

       

      精神科で診断書をもらった人への、周囲が発する実際の反応は、どうなることが多いのでしょうか。

       

      自分とは違うと感じた存在に恐れを抱き、簡単には排除するとまではいかなくとも、多少の距離を置きたくなることは少なくありません。

       

      その理由は、これまで書いてきた通りです。

       

      そして、そもそも診断書とは、いつ取得するものなのでしょうか。

       

      その多くは、自分の勤め先に対し、休養の必要が認められることを医師に証明してもらうタイミングで使われているようです。

       

      もちろん、一度休職期間などに入ると、経過報告や、復帰のタイミングでも必要になります。

       

      その他に家族や親族へ何かの理由で診断書を見せる必要があることはありますが、あまりそれが主たるものではありません。

       

      だとすると、最もポピュラーな使い方は、雇用主に見せることです。

       

      ただし、ここで一つ問題が発生します。

       

      それは、患者自身がどういったところに勤めているのかということです。

       

      他に替えがきくような、大きな職場であれば、休養、休職、復帰という流れの為に、使えるかもしれません。

       

      しかし、小規模事業、個人事業に雇用されている方などの場合、その人が居ないと、売上に直結してしまいます。

       

      小さな規模では、誰かがしばらく居ないということに対応できませんし、休職期間に標準的な給与の6割を支給するという雇用主負担も、小さな規模では支給が難しくなります。

       

      そういったいくつかの意味で、もし職場に残り続けるとしても、その人に雇用主が負担を感じることは少なくないでしょう。

       

      そうなると、小規模事業の場合は、診断書を持っていったとしても、単に職を失っただけという悲しいストーリーが待っている可能性もあります。

       

      このことについて、今回、対話をさせていただいた精神科医の先生とは、診断書を書くことが、患者への援助だとするなら、その背景をどうやって確認していくのかが課題になるということを確認し合いました。

       

      私のような一人の心理カウンセラーの意見を、ちゃんと受け止めて下さるのは、本当に有り難い医師だと感じた瞬間です。

       

      人間に起こる問題と解決の本質

       

      そして、筆者がこういった話題をご紹介した理由は、決して診断書について深く考えて欲しいからという、限定されたものではありません。

       

      人間に起こる問題と解決していくための本質的な話題を提供したいからです。

       

      それは、何が作用して悲しいストーリーが生まれたり、逆に問題が解決していったりするのかを、見極めることだと思っています。

       

      筆者は、この作用機能という言葉に、まだまだ私達一般人は無知だと感じているのです。

       

      少し前のブログ記事に、心理療法の中でブリーフセラピー(短期療法)というものがあり、その療法家たちが大事にしているのは、プラグマティズム(合理主義とか実用主義と訳されます)だということを紹介しました。

       

      該当する記事⇒ ブリーフセラピー協会学術大会2017に参加して

       

      筆者がこのことを通じて言いたかったことは、個人の気持ちがどうであるという以上に、どんな人間関係でも、実際にそこに起きていることを中心に問題を分析するべきでしょうし、実際に起こりうる解決策を立てるべきだと思うわけです。

       

      私達の住む世界は、実際のところ、まだまだそれがズレてしまっていると筆者は感じます。

       

      この問題はこうである筈だと論じて実践し、結局は予想通りに物事が進まず、机上の空論となってしまうのです。

       

      だからこそ私は、そのことをこの社会に伝え続ける使命を感じていますし、心理カウンセラーや心理系のセラピストを育て、支援し続けています。

       

      人の心がどのように実際に作用され、機能するのかを深く理解できた心の専門家(心匠)を、もっともっと増やしたいのです。

       

      心の専門家になれる講座

       

      私はブログ記事などを頻繁に更新する能力はありませんので、この記事が2017年最後となると思います。

       

      2018年1月21日からは、私が主催する心匠セラピスト養成講座9期がスタート致します。

       

      この講座を学んだ人は、心の実際についてを多くの点で理解するわけですから、周囲への存在感がシフト致します。

       

      現在、受講生募集中ですので、こういったことにご興味のある方は、是非半年間の深い心の学びに飛び込んでみて下さい。

       

      詳細は次の画像リンク先から、見ることができます。


      心匠セラピスト養成講座

       

      そして、こういう主張をする私が、問題を解決していく対話を生で見ていただけるセラピーライブが、1月14日(日)にあります。

       

      ご関心のある方は、是非とも見ていただきたいと思いますので、次の画像リンク先で詳細をご覧下さい。

       

      後半は、私に繋がるセラピスト達の交流会にもなっていますので、そういった方々と知り合いたい方もご利用下さい。

       

      セラピーライヴ 上野大SHOW

       

      私が月数回配信している心の専門家としての、心理と人間関係の無料メルマガにも、ご登録下さい。

       

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      心匠 上野大照のメルマガ こころの仕組み

       

      いつもご愛読ありがとうございます。

       

       

      JUGEMテーマ:ブリーフセラピー


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        [偶然の一致] ブログ村キーワード

         

        突然ですが、こんな写真があります。

         

        鷹人間

        (写真提供 知ってほしいnews_〆(・ω・ )ノ

         

        これはたまたま手前に居る鷹と、奥に居る人が重なって写真におさまったことで、特有の雰囲気になっているものだと思いますが、こういったことを、偶然の一致と言います。

         

        そして今回の記事では、この「偶然の一致」について、人の心理についての独自の視点を持つ心匠として、コメントさせていただこうと思います。

         

        偶然の一致はスピリチュアリズム(精神主義)

         

        「偶然の一致」という言葉は、スピリチュアルを大切にする人々の多くに語り継がれる言葉です。

         

        このことをシンクロニシティと呼び、ウィキペディアなどにも詳しく書かれている通り、日本語に訳すと共時性とか、共鳴性などということになるのだと思います。

         

        実はこのことについて、ツイッターに連続投稿で長々とつぶやいたのですが、今回それを校正し直し、改めてブログ記事として公開し、偏ったスピリチュアリストが語りがちな偶然の一致(シンクロニシティ)とは対照的に、ある意味現実的な側面を貫く認識論者として考察してみます。

         

        これを書く理由としては、偶然の一致を信じれば全てはうまくいくという安易なスピリチュアリズムに対する警告でもあり、逆にこの考察を通じて、スピリチュアリズムを日常に生かして、豊かな人生を生きていただく為の手助けとなれればとの思いがあるからです。

         

        認識論とは、人がどのように物事を認識しているのかという認知学のことであり、もう少し広く言えば、認知学自体について考え直してみようという、深い学問でもあります。

         

        認識論的に考えることができれば、この世界は現実的に考えても、精神主義にひけをとらない幸福への態度をとることができます。

         

        認識論では、リアリティで精神世界を紐解くことができる

        (写真提供 MAG2NEWS

         

        このことについては、後述する私の略歴をご参照下さい。

         

        偶然の一致を人はどうやって認識しているのか

         

        では本題に入らせていただきますが、先ず、認識論で物事を考えるなら、先ずは"どうやって偶然の一致が起こるのか"という原因と結果の考察の前に、人が何を偶然の一致と捉えるのかについて意識する必要があります。

         

        実際の偶然の一致がどうかは別として、"どのようにそれを認識するのか"ということですね。

         

        いつも通りの日常にある出来事が、いつも通り起きただけで、それが偶然の一致と捉えるかどうかを考えてみましょう。

         

        おそらくそれはないのではないかと思います。

         

        偶然誰かと出会えたときの表情

        (写真提供 bokete

         

        だとすると偶然の一致と捉えるものとは、特別に待ち望んでいた出来事について、そう思うのではないでしょうか。


        少なくとも、日常的(非日常)的な何かに繋がらない限り、それをわざわざ偶然の一致などという言葉で表現することはないでしょう。

         

        そしてこの場合、一致という言葉は、「何かと何かが繋がった」ということを意味するのだと思うのです。


        それは一体、何と何の繋がりを指すでしょうか。

         

        例として、昔の知り合いと似た人が通りすがりに見当たったとします。

         

        何か気になるので、しばらくその人を眺めていたら、思ったよりも時間が経ってしまってその先にあった何かの予定に遅れてしまった。

         

        その結果として、何かの事故を免れたり、その為にその先の場所で実際に会いたいと思っていた人に偶然会ったりするということもあるかもしれません。

         

        『何となく会いたいと思ってたら会えた』

         

        というような話は、枚挙にいとまがありません。


        私自身、自分にも人にも良く聞く言葉です。

         

        偶然の一致とは、何と何が一致したことなのか

         

        仮にこういった出来事を偶然の一致とした場合、「自分には関係ないと思っていたこと」と、「望んでいたこと」が繋がったことになるのだと思います。

         

        今回の例で言うなら、「似た人をただ無意味に眺めていた」ということと、「事故を免れた」または「望んでいた人に出会えた」ということが繋がったことになります。

         

        おそらく偶然の一致という言葉が指している両者の繋がりとは、こういったことなのではないでしょうか。

         

        それは日常の中では意識し難い、今後の人生に良い意味があることは間違いないでしょう。

         

        普段では起こり得ない、良い出来事です。

         

        だとするなら、それは不慮の災難を免れるか、思ってもない喜びに繋がるものだということになります。

         

        当時大人気だった歌手の坂本九さんが、飛行機事故で亡くなったのは、国民的大ニュースだったと親からよく聞かされたものですが、こういったことも、何かの虫の知らせがあって免れたらよかったのにと思うストーリーだと思います。

         

        坂本九

        (写真提供 wikipedia

         

        また、人はタイミング良く何かが連続していくと、その方向へと人生が引っ張られるものです。


        個人的には、お勧めや注目の商品をうまくネットブラウジングに刷り込ませてくるAmazonなんかは、この仕組みを逆利用している典型例だと感じています。

         

        そして「不慮」や「思ってもない」ということが意味しているのは、日常の中では意識できないものだったということになるのではないでしょうか。

         

        つまり、日常的なサイクルの中にはない出来事が、そこに挟まったことになります。

         

        しかし、先程の例で言うなら、単に自分がどこかへ行こうとして移動していたという行為は、日常的だった筈です。

        ではいつもと違っていたのは何だったのでしょうか。

         

        何が偶然の一致を引き起こすのか

         

        それは「過去の知り合いと似ている」と感じたことによって、いつもとはややちがう意識が関与したことによるのだと思います。

         

        この、

         

        『やや違う意識が関与した』

         

        というところが大切です。

         

        しかし、そんなことは、私たちの日常に、いくらでも起こり得ることなのではないでしょうか。

         

        日本に住んでいるなら、季節の移り変わりだけでも、色が日々変わっていきます。

         

        共に暮らす人でさえ、毎日同じ様子しかないことなどあり得ません。

         

        私達の日常は、些細ではあっても、実際には日々変化に富んだものなのです。

         

        そういうことを考えていくと、

         

        『些細な出来事に大きな意味が込められていて、それが原因で人生が今までにはない前進をする』

         

        という強引な解釈(私はこのことを偏ったスピリチュアリズムと呼んでいます)よりも、そう日々の出来事を捉える「期待」にこそ意味があるとは言えないでしょうか。

         

        私は、セラピストや占い師が起こしていることは、この「期待」にあるのではないかと、認識論的に理解しています。

         

        ならば逆に、日々の些細な出来事に大きな意味があるかもしれないという期待をどうやって湧出するのか。

         

        そこが日常を今までとは変えたいと願うときの論点になるように思うのです。

         

        といっても、それが然程難しくないことは、ここまでの文脈を理解した賢明な方であれば、よくわかると思います。

         

        今までの日常を変える非日常は、当たり前の日常の中に潜んでいると知るだけで良いのです。

         

        私達の日常をどのように捉えるのかは、その日常の主人公である本人の自由です。

         

        何も変わらないと捉えて絶望的な日常が続くと捉え続けることもできますし、全ては希望が満たされていく為に起こり続ける非日常の連続だと捉え始めることもできます。

         

        『そこにあるのは意識の差であって、出来事の差ではない。』

         

        そんなふうに捉えてみることもできるのではないでしょうか。


        そしてこのことについて申し上げておきたいのは、逆に、日常の中に特別な出来事は入ってこないという、冷淡な解釈を無理やり理解すべきだと言いたいわけではないということです。

         

        人生にラッキーなことはもちろんあります。

         

        運勢もおそらくはあるのだと思います。

         

        その意味で、そういった専門の職業にある人達を批判する意味は、私は持っていません。

         

        私がお伝えしたいのは、特別なラッキーが生じなくても、その幸運と同じ仕組みを日常の中に作り上げることができれば、それだけ日々の生活に潤いを持てるのではないかと期待できるのはないかということなのです。

         

        偶然の一致を妨げるもの

         

        そして私は心理カウンセラーとして、こういった「偶然の一致」の基となる意識を妨げるのが何であるのかも、わかっているつもりです。

         

        それは結局のところ、自己不信なのではないでしょうか。

         

        ここで言うそれは「私に新しい未来など見つける力がある筈がない」という認識のことを意味しています。

         

        そしてここまでくると、心理カウンセラーやセラピスト、占い師、その他多くの援助者がやるべきことは、「貴方は貴方のままで間違いない」と伝えることにあるのだということがわかります。


        おそらくわからないのは、それを実際にはどうやってやるのかということでしょう。

         

        それをやれば良いもわかっていたとしても、実際にはそうならないことなど、山のようにあるからです。

         

        その仕組みを、さらに詳しく語っていきたいところなのですが、今回のこれについて、恒例の年末のワークショップに機会を譲りたいと思います。

         

        小さな部屋でやる数名のワークショップだからこそ、せめて両日満席になるくらいにはなってくれたらと願います。

         

        しかし、こういった私が主催するイベントに参加できなかったとしても、今回書いたような日常は見る目一つで違うものと捉えることはできるという考え方を、是非とも意識して生きてみていただきたいと思います。

         

        それが何かのお役に立てれば幸いです。

         

        ワークショップの詳細は、後半のイベント紹介にて、ご覧下さい。

         

         

        心匠 上野大照って誰?

         

        この記事に何かの縁で辿り着き、お読みいただくことになった方へ。

         

        心匠 上野大照

         

        お読みいただき、とても光栄です。

         

        既に私の主催する講座や、心理カウンセリングなどによって深く繋がって下さっている方もいらっしゃると思いますが、こういった記事はまだあまり私のことを知らない方も読んで下さっていると思いますので、少しだけ私の紹介を兼ねたことを書かせていただこうと思います。

         

        私は仕事も住まいも大阪で構えています。心理カウンセラー&心理教育講師です。


        心理学という業界の中で、積極的に行動を変化させて現実を変えることを主題とするブリーフセラピー(短期療法)という手法を主に扱っているところに特徴があります。


        その為、その手法を扱う日本ブリーフセラピー協会では大阪支部長をさせていただいていたり、関西カウンセリングセンターという関西では一番大きな心理教育団体での講師も務め、短期療法を中心にカウンセラーの養成にも携わっています。

         

        心理の学びは専門的にスタートしたのは2007年からになります。


        その意味では、この業界に入ってまだ10年ほどの経歴ですから、新米のようなものです。


        2009年には非営利団体にて心理セラピストとして活動を始め、2013年に民間で独立開業しました。

         

        この業界には、とても多くの専門家の先生方がいらっしゃいますので、私ごときが専門家と名乗るのは恐縮なのですが、何を得意としているのかという視点で申し上げますと、実は心理カウンセリングよりも、認識論という学問が好きで、最も得意な分野だと自認しております。

         

        先程取り上げた説明の仕方なども、認識論的な説明法ですね。


        認識論とは、何が真実なのかという視点よりも、「人がどのように認識してそう解釈しているのか」というように考える学問なのです。


        私はこの考え方を、グレゴリー・ベイトソンという故人から、主に書籍を通じて学びました。

         

        彼の著作はどれも難しいものばかりなのですが、難問を紐解いていくようなストーリーにやみつきになり、数年かかって代表作は大体読み終えました。

         

        今となっては、この視点が心理カウンセラーとしても、講師としても、大いに役立っていると私自身は思っています。

         

        特に短期療法では、彼の考え方を基盤としていますので、余計に運が良かったと思います。

         

        最早、こういった認識論による視点は、私にとって違和感のない当たり前のものとなってきていますが、読者様にとっては、ちょっと一風変わった捉え方に感じるかもしれません。

         

        そしてこういった物書きとしての性質が、ある意味読者様の人生を動かすきっかけになれればと願っています。

        是非、私のような人間の物言いを、何かの参考にしていただけそうであれば、月数回の配信をしている無料メルマガへご登録下さい。

         

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        貴方の人生を自由にする8つのステップ

         

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        イベント紹介

         

        前半で取り上げていた、偶然の一致を引き起こしていく人生の創造法について、今年は年末に2回同じ内容でワークショップを開催致します。

         

        現時点では、両日とも、まだ数名の申込みが可能ですので、ご興味のある方は、飛び込んでみていただけたら幸いです。

         

        詳細はこちらのリンクからご覧下さい。

         

        美しき人生を想像する1Dayワークショップ2018

         

         


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          段々年末に近づき、2017年も暮れてこようとしています。

           

          このブログも既に書き始めて633記事目だそうです。

           

          訳あって消した記事などもありますので、そのまま残っているわけではありませんが、書き始めた2009年からの軌跡がここにあるのかと思うと感慨深いものがあります。

           

          ブログとは、ある種の個人主張を大切にするメディアだと思いますので、あくまで私が感じているものということで書こうと思うですが、今回は「人本来の生き方って?」というテーマについて、私なりの提言になります。

           

          それなりに長くなりますから、もしかすると、途中どうしてそんなことを言っているのかと、読むのがしんどくなる方もいらっしゃるかと思いますが、こういったテーマに興味を持つ方であるなら、決して無意味なことはないと思いますので、何とかお読みいただきたいと思います。

           

          そもそも『人本来』って何だろう

           

          先ず、『人本来』という表現は何を意味するのでしょうか。

           

          人本来の生き方とは何か

          (写真出典 カラパイア

           

          本能的に生きれば良いということを意味するようにも思いますし、人間としての尊厳を守って生きていきましょうと言っているようにも感じます。

           

          また、人は人間関係というものの中に生きていますから、その意味では周囲の人と調和して生きていこうというテーマに沿うものとも言えるのかもしれませんし、周りに合わせることよりも、個人が主体的に気持ちの趣くまま生きるのだと主張する人たちも居ます。

           

          昔と今とでは大切にしている思想も変わってきていますから、時代性を意識した方が良いのか、逆に歴史に一貫した何かを重視すべきだということもあるでしょう。

           

          そのどれが大切なのかを決めるという議論も、私としては何か偏ってしまう気がしますし、このことへの答えが人としての生き方を理解できることになるのではと思い、そのまま筆を進めさせていただきます。

           

          どれも人であることに変わりはない

           

          そして、その答えを私なりに(簡単に)言えば、そのどれもを包含したものであるということだと思います。

           

          本能とは、まとめてしまえば人としての尊厳も、周囲との調和も、主体性も、時代性も、歴史において変わらない何かも、どれも人の中に無いのであれば、意識できないでしょうし、結局はそれを全て含んでいるのが本能なのだと、私は感じます。

           

          我慢した顔

           

          その意味では、個性の生き様にばかり的を当てるセラピストや教育者は偏っていると感じますし、従来の集団教育を意識した我慢が美徳のような感覚も、今やあり得ないでしょう。

           

          協調性

           

          人類の歴史を俯瞰すると…

           

          このテーマを考える時に、私としては外せない前提があります。

           

          それはこれまで人類が生きてきた歴史です。

           

          私はこれを語る為の根拠として、難解な科学史書でもある『デカルトからベイトソンへ〜世界の最魔術化〜』という本をよく学びましたし、それを物語として学びやすいのは、『聖なる予言』という90年台の小説だと思いますが、ここにその要点を書いてみようと思います。

           

          人類の歴史は約100万年とも言われますが、実際に記号や文字などがあって、意志が明確に汲み取れる歴史は数千年しかありません。

           

          予測として言うなら、それまでの人類は常に死にさらされ、他の動物と大きな差のないレベルであったのではないかと感じています。

           

          狩猟

           

          そして象形文字などから始まる代替的なコミュニケーションを手に入れた時代から、文明を築き、私達が知る歴史というものとなっていきますが、この歴史を千年単位で意識すると、見えてくることがあります。

           

          多くの場合、私たちは自分たちの環境を千年単位などで見ることは少なく、自分の人生だけの数十年で見てしまいがちです。

           

          しかし、それではやはり、人本来というキーワードは読めてこないのです。

           

          ここでは是非とも、少し遠い話になりがちですが、そこを意識してみていただきたいと思います。

           

          文明は近代までに3段階を経ている

           

          紀元前5世紀あたりになって、天候の恐怖や肉食動物との闘争に明け暮れていた時代が終わると、人は釈迦も学んだとされるインドの古代哲学書『ウパニシャッド』や、道教の祖・老子、アリストテレスなどの哲学、ユダヤ、キリスト、イスラム、儒教などが栄えました。

           

          天候や運勢の読み方は神の教えに頼ったものか、呪術です。

           

          つまり、哲学・呪術・宗教などが収める時代で、これが15世紀頃までは主流なものとして続きます。

           

          インディアンの儀式

           

          これが2段階目です。

           

          この段階は、当初人々を魅了し、どう生きるべきなのか、常に指針を与えてきました。

          しかし、それも末期になると今まで見ることのなかった教会の不正などが、徐々にメディアの発達と共に民衆化し、疑いが強くなっていきます。

           

          キリスト教がカトリックに対し、プロテスタントという流れを生んだのも、そういった背景があったのは、歴史の語るところです。

           

          キリスト教会

           

          そしてそこからデカルト、ガリレオ、ニュートンなどへと科学による実験と実証による時代へと進み、こういった考え方で人の心も理解しようと、19世紀には心理学も始まります。
           

          ニュートンの放物線

           

          心は科学的に理解できる筈だという思想です。

           

          このことは、心理学の祖であるフロイトが常々語っていた探求心への言葉でもわかります。

           

          この段階が3段階目。

           

          現代の人間が何でも証拠を求めたがるのは、この4世紀ほどの時代性に飲まれているからとも言えます。

           

          これをモダン(近代)と言い、ある意味科学至上主義となっていきます。

           

          しかし、これもまた、科学の発展自体が、今までの科学を否定するという不思議な現象を起こしました。

           

          それは量子物理学の分野がまさしくそうです。

           

          シュレディンガーの猫

           

          原子の中身は何なのかというこの世の最小の仕組みを紐解いていくと、こんなことがわかってしまったのです。

           

          『見ているときに、それはある形態に留まるが、見ていないときには、どうなっているのかわからない』

           

          なんとも意味深です。

           

          これをもう少し単純に言うと、

           

          『観測者によって、観測結果は変わってしまう…』

           

          ということのようです。

           

          つまり、科学を信じるなら、何を信じて良いのかわからないということを信じる必要が生じてしまったのです。

           

          このことは、ここ数十年の日本を見てもわかります。

           

          戦後の日本は大きな経済発展を遂げました。

           

          特に高度経済成長期という時代は、前年比10%の経済成長を20年に渡って通過しました。

          現代の60代以上くらいの人たちは、まさしくこの時代を生きてきた人たちであり、それに出会いもしなかった現代の20代の人たちの感覚などはまるでわからない筈です。

           

          日本は90年代の山一證券の破綻を皮切りにバブルが崩壊し、うつを大衆病ともなり、それ以降の自殺者が激増しました。

          若者の傾向としても、不登校、引きこもり、ニートが増え、私にとってそれらは人間社会が何かに気づくことを訴えているメッセージとも受け取れています。

           

          今、日本の経済は大企業を中心に盛り返してきていると言われています。

          しかし、その盛り返しに反し、人の心は昔の活気を取り戻してきてはいません。

          もはや、経済的なものだけが幸せをくれるのだとは、思えない人たちを増やしてしまったのではないかと感じます。

           

          ここまで書いてきた長い歴史と最近起き続けてきたこと等を通じて考えれば、太古の時代から人の解決することのできなかった意識がわかります。

           

          不安を抱えた人

           

          それは、人は何を根拠に生きれば良いのかという不安の解消です。

           

          この不安は、結局千年紀を経ながら培われてきた歴史上、どうしても解決しませんでした。

           

          そしてそれは今も尚続くものですが、これに対して数十年前からは、ポスト・モダン(近代の次)という思想が芽生え、そもそも何かわかることなど不可能というニヒリズム(虚無思想)を生んだりもしました。

           

          この段階はある意味、4段階目とも言えますが、これについては安定しないままに現代(21世紀)に至っています。

           

          結局のところ、人が求めたものとは…

           

          そう考えると、結局のところ、人が歴史を通じて求め続けてきたものとは、自分がどうすれば安心していきられるのかという、精神的依存先であり、これについて明確な発言をしてきた人たちこそが、宗教や政治をによってその時代の指導者となってきたということなのだと思います。

           

          しかし、それらは結局のところ、個人単位では信頼のおける人が居たとしても、勢力が大きくなると、常に打ち砕かれてきました。

           

          もちろん、これは先程言った千年紀で考えた場合の解釈です。

           

          そして私達人類は、前項に書いた通り、4段階目で右往左往しています。

           

          そのことについて私なりに言及するなら、人が自分の外側に依存先を求めることからの脱却を意味しているのだろうと感じるのです。

           

          内なる神』という表現は、長く細く受け継がれてきた表現。

           

          内なる神の光

           

          それはきっと私達の精神を深く満たし、生きる指針を与えてくれるのだろうと思います。

           

          しかし、それが何を意味するのか、その解釈がなかなか定まらないままに来ているのが実際なのでしょう。

           

          私達の精神を深く満たし、生きる指針となるもの

           

          は、どのように手に入れることができるのでしょうか。

           

          これを短縮して、ここからは『内なる指針』と表現したいと思います。

           

          人の在るべき生き様は『内なる指針』に従って生きること

           

          インドの古代哲学書「ウパニシャッド」には、自己の本質である「真我(アートマン)」は、それ自体が語る言葉として理解することはできず、「◯◯ではない」という否定でしか至ることができないと書かれていたそうです。

           

          文筆家でありながら、西洋ではダライ・ラマに次ぐ精神指導者とも言われたパウロ・コエーリョの書いた小説「アルケミスト」には、錬金術の秘密が書かれたエネラルド製の板『エメラルド・タブレット』が登場しますが、そこにはほんの数行だけ真実が書かれていると言われますが、それが何と書いてあるのかは、記されていませんでした。

           

          ある時期、世界的に大ブームとなった「聖なる予言」も、やはり重要なところが言葉にはならず、感覚として理解することが問われていました。

           

          このことは、どうやら文字にしようと思うと、何か別のものになってしまう、特別な内容なのでしょう。

           

          私が多くを学んだグレゴリー・ベイトソンという文化人類学者は、このことに触れようとして著作を書いている最中に亡くなりましたし、意志について自分の自叙伝によって明らかにしようと試みた心理学者のユングも、やはりその著に取り組んでいる間に亡くなりました。

           

          もしかすると、これは何か人が触れてはいけない領域なのかもしれないと感じることさえあります。

           

          それが実際どうなのかはわかりませんが、どちらにしても、『内なる指針』は、私達の多くが理解している方法(勉強)で理解されるものではないのかもしれません。

           

          しかし、私は心理カウンセラーですから、このことと似たものであると感じる瞬間を、何度となく垣間見てきました。

           

          それは、人が自分の人生に希望を見出し、前を向いて歩いて行こうとする瞬間です。

           

          私は臨床の中で、それを見るたびに、感動してきました。

           

          人の希望とは、何で構成されているのだろうか、とても気になっています。

           

          人は何を燃料として、未来を生きているのだろうか。

           

          それは決して、物理的な食物を意味しているわけではありません。

           

          ここで話題にしているのは、精神面におけるそれなのです。

           

          それこそが、今回言っている『内なる指針』であり、それは希望、豊かさ、指針、力などが一つとなっている存在であり、それを見つけ出し、それに従って生きることこそ、満たされた人生(美しき人生)へと繋がると信じています。

           

          心理学が証明した、人が希望を見出す燃料

           

          ここでもう一つ、心理学があったからこそ、証明された人が希望を見出す燃料をご紹介しましょう。

           

          自殺願望者が自殺することの魔力から解放され、積極的な人生を生きようとすることを決意するとき、何に気づいてきたのかということです。

           

          これは心理カウンセリングにおける膨大な対話記録によってわかりました。

           

          それは自分の勇気、賢明さ、思慮深さ、強さなどへの気づきでした。

           

          そしてその気づきは、ある意味使命感と似た感覚を持ち、その人の人生を支えることがわかりました。

           

          私も多くの自殺願望者と接してきました。

           

          たしかにこのことは、その都度肌に感じてきた要素です。

           

          このことは、ここまで言及してきた『内なる指針』と何か関係がありそうです。

           

          『内なる指針』が明るみに出てくる仕組みとは

           

          先程、少し書いた通り、どうやらこのことは、意識の世界で、わかりやすく理解されるものではないようです。

           

          しかし、厳然として存在している感覚は否めません。

           

          使命感と似た感覚は、陳腐で単純な言葉になることを避けているかのようにも感じます。

           

          事実、カウンセリングの最中にはこの感覚が垣間見れるのですが、対話の中で徐々にそこに近づきつつ、それが何なのかは、やはり言葉になりません。

           

          その対話の一部は、前回のブログでご紹介しました。

           

          つまり、ある種の対話を繰り返すことで、それが言葉としてではなく、本人だけに感じられる感覚として理解されてくるようです。

           

          しかし、その対話には性質があります。

           

          内なる指針

           

          それは生の対話である必要があるということです。

           

          その理由は、対話しながら徐々に醸し出される雰囲気の変化をヒントとして、私が都度質問する内容を変えながら進むからです。

           

          また、生の場では、ヒントとなるものもあります。

           

          それは他の人と私が対話しているのを見て、聞き、感じることです。

           

          「何か自分にもそういったものがある気がする…」

           

          そんな感覚が刺激されます。

           

          しかし、そんな対話の中で、繰り返されるテーマは、それほど難しいわけでもありません。

           

          それは『貴方は◯◯ではない』という性質のテーマ。

           

          ウパニシャッドが真我(アートマン)を表出する方法として提示した方法とも言えるでしょう。

           

          私たちは認識している自己があります。

           

          「私はこんな人」と思っているやつです。

           

          しかし、それはある種の対話を繰り返すと、疑問を持つことが可能となり、ついにはそれではない自己を感じることができます。

           

          そして更にそれが何度か繰り返されると、何者とも言えない領域に突き当たります。

           

          それこそが、今回主題としている『内なる指針』です。

           

          自己の相当深いところにありますし、毎回必ず生き当たるのかは、私も自信がありませんが、どうやってそれを感じていくことができるのかを伝えることは可能です。

           

           

           

          美しき人生を得る為にある『内なる指針』の模索。

           

          今できる私の最高手段は、このワークショップにてお伝えしたいと思います。

           

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          美しき人生を想像する1Dayワークショップ2018

           

          12月6日現在、

           

          ・12月24日(日)はあと5名ほど

          ・12月28日(木)はあと2名ほど

           

          のお申込みが可能です。

           

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