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- 2020.10.17 Saturday
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- by スポンサードリンク
男と女は違う生き物なのか。
それともその差はあくまで社会・文化的な個人差を言っているだけに過ぎず、誤差の範囲に収まるものなのか。
筆者はこの点、生物学的差がどの程度かは別として、やはり違うという立場をとっています。
そして自分という性を知り、相手という性を知ることは、大いに実際上の生活に好影響があるものと信じています。
今回はその価値について、書かせていただこうと思います。
柔らかな日差しが部屋に入り込み、今日もいつも通りの平穏な始まり。
今朝の食卓に置かれたのは、できたての目玉焼き。
湯気が上がり、胡椒の効いた良い香りが漂う。
妻が夫に「醤油要る?」と尋ねる。
いつも使うものをとってあげようかとの気遣いだろうか。
すると夫は、少し複雑な表情になり、機嫌をそこねる。
よくあることだが、妻にその意味はわからない。
「いつも使うから取ってあげようか聞いてるだけなのに…」
その後、夫が今日の新聞の見出しチェックを終え、キッチンでせわしなく動いている妻に、「新聞読むか?」と尋ねる。
普段妻が新聞を読むことはあまりない。
しかしこれも、夫にとって気遣いなのか。
妻はこう言う。
「貴方、それってもしかして馬鹿にしてるの?」
夫は妻の、わけがわからない怒りに翻弄される。
こちらにそんな意味はないのに。
間もなく夫が定年を迎える。
子どもたちはそれぞれ仕事と家庭を持ち、既に独立していた。
妻が先日、内緒で役所に行ったのは、白紙の離婚届をもらってくる為。
今日も爽やかな朝。
特に何かが変わっていることはない。
先程の物語は、実際にあった話に、多少の脚色をしたフィクションです。
ただ、こういった話は、他の夫婦やパートナー同士にありがちで、象徴的な事柄だと筆者は捉えます。
筆者自身、この手の心理カウンセリングを何度となく経験してきました。
味に関係なく、なんでも醤油をかける夫。
妻がそこに苦言を呈したのは一度や二度ではない。
情報はテレビがメインで、紙で読むのは性に合わない妻。
「新聞読みたいから貸して」などと言ったことなど一度もないのに、いつまでも「読むか?」と聞き続ける。
夫には、昔から自分の知識の薄さを馬鹿にされてきた。
いつになったらちゃんと自分を見てくれるのか。
男女の問題は長年の歴史がある。
それは普遍的なもの。
近年ではLGBTの意識変化などもあり、性について、その境界は曖昧になってきたが、どちらにしても自分がどちらかに性に意識があるのは、大抵の人が自覚している。
男女の問題を解決する決定打は何なのか。
そもそも男女とは何なのか。
少し前に男女は脳の構造がまるで違うという説を展開する本が流行りました。
世界的に大ベストセラーとなったので、ご存知の方も多いと思います。
アラン・ピーズ&バーバラ・ピーズ夫妻による『話を聞かない男、地図が読めない女』です。
この本で言っていることは、男女は"脳"の構造(配線)が違うことによって、情感への印象も、空間認識能力も、論理展開も、まるで違うということです。
この理論は、今でも世界中の人々を魅了しており、この本があまりに売れた為に、それとほぼ変わらないような内容を真似て書いた本まで飛ぶように売れるという事態まで起きています。
この本によれば、
男性は空間認識能力に優れており、車の運転などに向いており、未来・目的を重視することから、問題解決型である。
それに反比例して、情緒の扱いがうまくなく、空気が読めず、人間関係を形成する対話能力が低い結果、気持ちを相手に伝えることが不得手。
女性は同時進行でマルチタスクを行うことに優れており、育児と料理などを同時に行える。
また感覚は今起きていることを重視することから、結果として生活を充実させることに秀でている。
やはり男性同様、その能力に反比例するものがあり、関心が生活や趣向に集中しがちで会議などで目的を見失い、自分たちの満足度や利便性に話を固執されやすい。
などなど、とても多くの性差を伝えており、どれも日頃見てきている男女差に重なって見える為、読んでいてそれなりの信憑性が感じられるという側面はあります。
その半面、男女には決定的な差は見られないという説もあります。
(出典「パスツール研究所」wikipediaより)
フランスにある生物・医学研究の第一線を走るパスツール研究所の所長カトリーヌ・ヴィダル氏は、上記のような男女差を真っ向から否定しているようです。
(出典「脳梁」wikipediaより)
彼女が言うに、男女の脳に違いがあると言われた根拠は、「脳梁(右脳と左脳を繋ぐ橋)が男性の脳に比べると、女性の方が1.3倍程太かった」という話だという。
しかし、この説は、まだ生きたまま脳を観察することができなかった時代に、100体前後の御遺体の脳を解剖して得られた結果だとして、現代のMRIなどにより、多くの生きた"脳"を観察する研究によって否定されたそうです。
脳の構造において、男女に差はないのが現在の通説なのだとか。
同氏による著書『脳と性と能力』では、男女差を訴える学説などのいかに無意味で危険なことなのかを、痛快にバッサリと切り捨てており、こちらもまた知的で新鮮な驚きを与えてくれます。
日本で同説を根拠に男女脳の機能差をうたってきた黒川伊保子氏という男女脳の専門家などは、困った反証をされてしまったと言えるかもしれません。
彼女は右左脳のつなぎが良い女性は天才脳、つなぎが悪い男性は鈍感脳とさえ表現してますので、男尊女卑に対する逆説を唱えようとしていたのでしょうか。
上記ヴィダル氏の発言は、私自身、心理カウンセラーとして生物学的な根拠が欲しかったが故に、黒川氏を支持してきた私にとって、ショッキングなニュースでもありました。
こちらの本などは、その書き方から言っても、いかに男性が女性を理解することに失敗しているかという論調ですので、表現は全体的に女性優位です。
その意味で決めつけた表現を嫌う人にはちょっと読みづらいところもありますが、筆者としては当時随分参考になりました。
(筆者の私見として、日本のビジネスの社会はまだそういった表現が必要な程、男性優位志向だと感じる点が多いかったからです)
脳の構造を男女差の根拠とするという点を除けば、それなりに読み応えはあります。
上記二つの意見は対立しており、互いが認め合おうという話には至っていないようです。
もう少し情報を付け加えますと、パスツール研究所のヴィダル氏は、脳は可塑性と言って、同じようなことを感じ続けたり、し続けれたりすれば、その部位が多くの刺激を受けて発達する傾向があると言います。
それを根拠に男女の脳による差は、個人の生きてきた歴史がつくるものであり、育った文化によって受ける影響が強く、男女それぞれが自分の性を自覚するのは2歳半くらいからだとメディアの取材に答えています。
簡単に言えば、生まれた時から男の子には男らしく、女の子には女らしく育てるから、そういう性差が生まれるだという主張です。
私達が性差だと思っているのは、単に意識的な育て方の違いであって、実際の性差ではないと。
この点、筆者はたしかにそうだとも思うし、そうとも言い切れないとも感じています。
この写真を見てみて下さい。
水鉄砲に集中する男の子と、その子を見ている女の子。
もちろん、一枚の一瞬の写真で何かを証明できるとは言いません。
ただ、こういう光景は、筆者自身も自分の子どもの保育園や公園などでよく見かけましたし、ある意味、男女の差を伝えているとも感じられます。
物や身体を動かすことに興味を持つ男の子、人と共に過ごし話すことに興味を持つ女の子。
また別の一面もあります。
自分がやっていることを見て欲しい男の子と、思っていることを聞いて欲しい女の子といった感じでしょうか。
こういったことは大人になっても続きますし、生物学的にどれほどの差があるのか、ないのかという話とは別に、少なくとも男性文化と女性文化には差があります。
こういったことは全世界的にも多くの人種で共有されている男女差であり、それが単に文化差だとしても、その影響を受けている人工は相当数に及びます。
ならば、本当に男女に差がないと言い切れるものなのでしょうか。
別の根拠を探せば、男女には、生まれてからの生育環境だけでは測れない差があるのは明らかです。
先ずついている性器が違いますし、基本的には乳房が大きくなる男性も居ません。
全世界の男女を平均化すると、やはり男性の方が筋肉は多く、女性の方が少ないです。
世界的な統計では、男性は自分の体重の2倍までの重さを持つことが可能だと言われ、女性は体重の2分の1までしか持てないようです。
男性の方が背中の皮膚は女性の4倍厚いこともわかっており、男性意識としての鈍感さと、女性意識の繊細さにも関連がありそうです。
脳には違いがなくとも、やはり生物学的差があるのです。
また、母親の胎内の動きを3D映像によって観察すると、多くの男の子の方が手足を強くバタつかせますが、女の子は胎内で既に口がよく動いています。互いに、その反対(異性)の性質はあまり持っていません。
その意味で、男の子と女の子を両方出産した経験のあるお母さんが、二人のお腹の中の動きが違ったと答えることの多さも頷けます。
アンパンマンに登場するアザミちゃんというキャラクターは、お花を愛する心優しい女性ですが、相手の心をグサグサと指すトゲトゲしいことばを使って、バイキンマンにさえうろたえません。
人間関係に強い女性的価値観を象徴しているのでしょうか。
もっと言えば、成人した女性と男性を比べると、日常におけるホルモンバランス差は、1ヶ月単位で計測すると、男性で400%ほどしかないのに対し、女性は実に8000%もの変動を起こしています。
男性にとって、女性の遥かに大きい内的変化を体感することは難しいでしょうし、女性にとって男性の無感覚さを体感することも難しいでしょう。
それぞれ異性になれる特殊スーツなどが開発され、着てみれば良いのですが。
更に男女の脳の温度を図る研究では、男性の脳は休憩時に9割ほど活動を停止しているのに対し、女性の脳は活動を停止すること自体あまりないようです。
そういった点から考えると、男女には見た目以上に、機能的な差が見受けれられます。
男女差がどのようにあるのかを探求している筆者にとって、ここで挙げられることはごくごく一部でしかないのですが、こういったことだけでも、男女はやはり明らかに違うようです。
では何故、世界的な生物学研究の象徴とも言えるパスツール研究所長が、男女差はないと言ったのでしょうか。
筆者の解釈でここまでをまとめると、こうなります。
ヴィダル氏の言っているのは、"男女の脳は構造的に差はない。つまり男女に差はない。"ということ。
そしてアラン&バーバラ氏や黒川氏の言っているのは、"男女は違う。その理由は脳構造によるものだ"。ということ。
どちらもどこか片手落ちのようです。
ヴィダル氏の脳構造において差がないというのは恐らく事実なのでしょう。
その点ではアラン&バーバラ氏、黒川氏などは改める必要がありそうです。
しかし、男女は違うという点で、脳の構造に差がないことだけを根拠に、男女差はないと決めつけるのも、随分強引な解釈な気がします。
科学的根拠だけを見て、人間を見ようとしない姿勢に感じられなくもありません。
ただ、彼女がそれだけ男女差を認めないことを重視するのには、それなりの背景を感じるのも確かです。
それは"差"によって、人権被害が歴史的に多発してきたからなのでしょう。
その意味で、積極的に差を感じさせるべきではないという主張は、たしかに大切なのかもしれません。
近年では、男尊女卑の世界的歴史を覆すように、女性の復権が目立ちます。
女性の起業が目立っているのも歴史的に説明がつきますし、男性だけで家庭の経済が間に合わない雇用形態の不安定さも関係ありそうです。
差について言えば、男女だけでなく格差是正に関し、世界の人権団体などはその努力を怠りません。
数十年前遡るだけで、人類は支配者と奴隷という社会構造を保持してきてのですから、差を強調することは危険なことだとわかります。
その点、筆者としては、こう考えます。
差はあってもなくても、人々は同権だ。
しかし、同権であることと、同質を混同してはいけない。
差を正しく理解することは、互いの強みと頼るべき点を知り、もっと大きな単位での幸福に活かせる学びです。
相手にない強みを持って役に立つことは、自分に生きる意味を教えてくれるでしょうし、相手にない弱点を知って依頼することは、相手に存在の意味を与えることができるかもしれません。
たとえそれが男女という異性であろうとなかろうと、自分にとって異質だと感じる相手は存在します。
そういう相手と共に生きたり、共に仕事をしようとするなら、相手を理解し、自分も同じようにしてみることは大切です。
ただ、近年のコミュニケーションによる対策は、この点に偏りすぎていると感じるのは、筆者だけでしょうか。
この写真は、日本近海の親潮と黒潮という寒流と暖流を分ける境目であり、潮目と言います。
実はこの二つの流れ、潮目で温度が混ざることはありません。
暖流は上部に上り、寒流は下部に沈むのです。
科学の世界も、ある時期までは"全てのものは結局混ざり合って何も個性のない世界に向かっている"と信じられていた時代があります。
これを混ざり値(エントロピー)増大の法則と言います。
コーヒーにミルクを入れると徐々に混ざって違いがわからなくなってくる現象です。
しかし、上記の潮目を見てみても、互いが混ざり、同じようになることだけが、生命を存続させる力なのではないことを地球が証明しています。
海は混ざらず、立体的に重なりあって、命を育んでいるのです。
現代では、科学もそれを認めています。
この宇宙には、混ざって個性を奪う力と、混ざらずに互いを維持する力の両方が存在しているのです。
筆者にとってこのことは、地球が"個性は失うだけが答えではなく、またそれを他へ強迫することも、幸福の答えではない"と伝えているように感じます。
男女というわかりやすい異性質が、世界・家庭に存在していることは、私達が生きる在り方を、示してくれているのではないでしょうか。
そしてその答えは、統合にあると捉えます。
統合とは互いが同質になることではありません。
個は生かされ、全体は相乗効果を持つ。
その先にはこれまで見えなかった新しい未来がある。
それが家庭にも、カップルにも、職場にも、この社会全体にも構築していければと願います。
筆者の主催する事業、オフィス・コミュニケーションズでは、心を学ぶ講座という一般向け心理学講座を提供しており、そのこだわりは実際生活に意味のないものはお伝えしない厳密さにあります。
常時少人数制で語り合いながら学ぶスタイルは、講師が一方的に受講者に伝える一方通行の学びに比べ、知識として以上に、自然と見について行くことを目的としています。
心を学ぶ講座 統合編〜男女の旅〜は、月に1回を5ヶ月間行う本格講座ですが、8月4日(土)12:30〜16:30には、その体験講座を行いますので、単発参加が可能です。
講座詳細は、上記画像をクリックしていただけば、ホームページが表示されます。
そのままお申込みも可能です。
筆者の日頃の文筆活動に注目いただける方や、こういった情報にご興味をいただける方は、無料メルマガにご登録いただけます。
イベント情報のお知らせやブログ更新情報と共に、週1・2回程度、皆様の日常に役立つ心のお話が配信されます。
長い文章をお読みいただき、ありがとうございました。
この記事が興味深く読んで頂いた方は、こちらの記事もお気にいっていただけるかもしれませんので、紹介しておきます。
JUGEMテーマ:男と女
この記事は、心理学、宗教、スピリチュアルや自己啓発、哲学など、心と幸せの分野を学んだことのある人の中で、未だ欲しいものが手に入っていないと感じる人や、何か違和感を解消できていなかったり人へ向けて、お届けしたい内容です。
筆者自身の体験も含めて、お伝え致します。
先ず、こういった分野を学んだり、どこかに所属したりしていく理由は、どこにあるのでしょうか。
筆者としては、次のように思っています。
それは先ず、仕事にしていこうと思っているのか、そうでないのかという点です。
仕事にしていこうと思っている人であれば、そういった分野の専門知識を手に入れ、それを人に伝えたり、そういった理論を駆使して人を導こうと思っているように見受けられます。
これらは教育者や援助者を目指して、またはそういった人たちが更に深いものを求めて学ぶという意味です。
そしてここで言いたいのは、"そうではない人"に向けたものになります。
つまり、それは一般的な理由によるもので、趣味として自分の知識を増やしたり、自身の生活の為に学ばれるのでしょう。
こういった分野の学びを、仕事にしていこうと思っていないのであれば、その目的はほぼ明白ではないでしょうか。
おそらくその目的は、手に入れた知識や技能を、今よりも幸せになる為に使いたいのだと思います。
その意味で、もし既に心の分野の学びをしていても、欲しいものが手に入っていなかったり、違和感を感じ続けていたりするというのは、もしかすると実生活に自分が思うほどの満足を、まだ手に入れられていないのかもしれません。
上に載せた写真は幸せへの道をイメージしたものですが、幸せを手に入れるというのは、それほど一直線ではないことを多くの人が理解しています。
最近では、筆者自身、男女について深く学ぶ中で、この"幸せ"という表現も、男性的観点と女性的観点では、意味しているものが随分違うようですので、その点にも少しだけ触れさせていただきます。
女性の場合、その多くは今ここにある体験を意味しているようです。
そのため、誰とどのように過ごしているのかという日常的なところに幸せの価値観が定まりやすいのだと思いますし、そこには大抵誰か対象者が存在しています。
誰かと共に幸せになりたいという価値観です。
そしてまたそれは、男性には通じ難いらしく、男性側に立った幸せとは、興味のある分野への熱中であり、未来に何かを達成・実現すること(目的)や、他を上回ること、能力を発揮すること(競争)の意味合いが強く、基本的に自分一人か、自分を含むチームのことでないと感知しにくいようです。
そして筆者の言う、"幸せ"という言葉は、そのどちらも含むと思っていただいたら良いと思います。
大切なことは、そういった自分にとっての"幸せ"が、それを目的とした学びを通じて、"本当に手に入っているのか"ということであり、もし実際にはそうなっていないなら、何か考え直す余地があるのかもしれません。
筆者自身、これまで宗教、心理学、スピリチュアル、自己啓発など、多くのことを学んできました。
そして学ぶ度に、痛いほど気づいてきたこと。
それは"学ぶ"ことと"幸せになる"ことは違うということです。
宗教を学び実践していた当時、そこには"見えないものを重視する思想"が存在し、それが"守るべき教え"となっていたりもしました。
しかし、当時知った一つの統計指標がありました。
それは震災などの災害時、そこで命を落としてしまうかどうかという"運"や、そういったことが後に心理的ダメージとなった人が、信仰者とそうでない人に差があるのかという調査です。
残念ながら、そこには有意差が認められませんでした。
当時、盲信していたとも言える筆者にとって、ショッキングな指標だったことを覚えています。
また、宗教の先生方が、実際にはうまくいっていないのに、それを団体の上層部へ一生懸命嘘をついて良い内容に仕立て上げた報告書を作ろうとしていたのを見たのも、大きな違和感を覚えました。(全宗教がそうだという話ではありません)
その後、もっと普遍的なものはないのかと、心理学とスピリチュアルの分野にいきました。
心理学で感じたことは大変意義深く、たしかに幸せとはそういうものかもしれないと納得させられることが多くありました。
スピリチュアルも同様です。(これについては、目指すべきポイントだと仮定し、後述させていただきます。)
しかし、心理学とそれに基づいた心理カウンセリングは、主に傾聴という手法で雲を掴んでいくように進むもので、そこに至る道筋は難解で遠く、実際に幸せになっていくには、どうもまどろっこしい感じを受けました。
当時、既に代替医療の治療師として、数千人という苦しい患者を見続けてきた経験から、あまりに時間のかかるアプローチに、余計そう思わされたのかもしれません。
スピリチュアルの学びでは、全ては自分に原因があるという観点が手に入りました。それによってある種の苦しみも通りましたが、"だからこそ、この世界は自分で加減できる"と理解することができ、生きる体験が随分と自由になりました。
しかし、あまり良いとも思えない、この分野特有の雰囲気も、それを学ぶ人達に感じていました。
それはどうも浮足立っているというか、実際には本人の固有感覚だけのものを、"私は感じる"ということを根拠に正当化する雰囲気のことです。
また、実際には苦しいのに、どこか"やけにポジティブ"に振る舞っているように思うこともありました。
もちろんそうでない人たちもいましたが、どこか全体的にわかった気になっているだけで、安易なものに流されている印象を受けてしまったのです。
自己啓発をセミナーで受けた時には、大変大きな衝撃がありました。
ある意味、視点が逆転するというか、良いと思っていたものが悪くなり、悪いと思っていたことが良くなり…。
結果、それまでには認められなかった自分の能力に目覚めたり、他者にも別の視点を見いだせたりして、世界観が一変したことを覚えています。
この分野を学んでいなければ、今のように社会への発信をしていく決意はできなかったかもしれません。
ただ、この分野では、新しく手に入れた自由的思想を他者批判に使っている人の多いところが、少し嫌な印象を持っていました。
自由過ぎると感じるところもあり、具体的には性の扱いが適当になってしまったり(結果悲しい思いをしている人もよく見た)、社会の健全に見えるヒエラルキー(上下意識)でさえ無視するような横暴さが目立つ時もありました。
口では美しいことを言うのですが、実際にはやたらと知名度や経済的成功に意識が向いていることにも、何か違和感がありました。
ここまでは、そういった複数の分野で得たことと、批判の両方を書かせていただきました。
筆者の言いたいことは、ここまで綴ってきた分野の存在が問題的な側面しかないということでは、決してありません。
それぞれに価値のあるものを提供していて、どの分野にも筋の通った人がいるもので、私も大変お世話になった人たちがたくさんいます。
ただ、ここで体験としてお伝えしたかったのは、自分自身、これらのどれにも本質的に満たされなかったという現実があり、結果、その不満が現在の探究心を生み出し続けているという点です。
上記は、中世に流行り、ユングという心理学者が大いに研究した錬金術の画像です。
この画像では、"賢者の石"という超人的力と神の知恵を得る究極物質を生み出そうとしているところが描かれています。
描かれている人も男性ですし、この石の力は知恵と力、不老不死などですから、やはり男性的な理想像を"幸せ"に結びつけていたのだと予測されます。
その意味では、女性的な要素が薄い分、幸せについて大きく欠落していることは否めません。
人類の歴史をたどると、この時期(15〜17世紀頃)を境に、科学と精神が分離していきます。
徐々に科学の勃興が始まった時期ですから、魔術のような錬金術は廃れていきました。
筆者自身も、幸せを得るために、人類が再び錬金術を始めた方が良いとは、もちろん思いません。
ただ、この"錬金術"という作業が、今回、心理学を例に説明する"幸せを得る方法"と似通ったところがあるように感じているのです。
そのため、今回はこれを例に、心理学がどのように人を幸せに導くのかについて、書き記していこうと思います。
錬金術とは何なのでしょうか。
簡単に言えば、金ではない金属を使って、金をつくってしまおうという取り組みです。
それはおよそ魔法や呪術的なものだったと解釈されます。
物理的に考えれば、金属を新しい形にするわけですから、一度溶かして液体にし、冷やしていく過程で再形成するのが一般的でしょう。(途中でどうすれば金になるのかはもちろん不明なままです)
ただ、この溶かして再形成するということを、精神に例えて言っているのであれば、そこまで無駄なものとも言えません。
ユングという心理学者は、その点で錬金術を20世紀に入ってから深く探求しています。
こちらの画像は金属ではなく、瓶を熱してガラスを溶かし、再形成する時にデザインしていく吹きガラスの工程ですが、やはりやっている工程はほぼ変わりません。
ガラス工芸の作業映像などは、読者様の多くがメディアなどで一度は目にしていると思います。
そして、古い心理学がやろうとしていることの多くは、ここにあるようです。
ここで言う古い心理学とは、精神力動という分野を重視するもので、19世紀に心理学を始めたフロイトという人を祖とし、分派・派生した学派を指します。
基本的にこの分野の心理学は、「心の底から悪い人間はいない」という"性善説"が前提です。
そのため、もし大人になって精神的な問題が見つかったとしても、それは形成したものが間違ってしまっただけであり、それを溶かして元に戻せば、適切な形に再形成できると信じているようです。
これについては、筆者も同じ立場を取っています。
そして、心理学を学ぶことや、心理カウンセリングを受ける目的の一つは、ここにあります。
再度わかりやすく表現すれば、幼少期から現在に至るまでの間に、幸せに生きていくことに障害となったり、本来の力を発揮できなくなってしまった心の形を再び溶かすことで、当時の心に一旦リセットし、今と未来に適った新しい心を造り直すことにあるのです。
この場合、過去に凍りつかせてしまったものを溶かすことや、複雑に荒々しく絡まらせてしまった糸を解いていくことが必要。
その意味で、これは精神治療というよりも、自己理解を促す尊く文化的な対話なのであり、新しい生き方を探る為の意義深い試みです。
成功すれば、これまで不可能とされていた能力を開花するでしょうし、これまでにはうまくいかなかった誰かとの人間関係を真に豊かなものとする可能性に満ちています。
その意味で、前項に挙げた各種分野や方法論の中で、何かに蓋をして無理に幸せを目指すように見受けた他の分野と、心理学とは全く質が違うものだと、筆者は捉えます。
人間についての進化的説明は諸説あります。しかし、それらを平均すると、結局のところ、私達ホモ・サピエンスは5万年ほど前から、基本的に個人の性質や能力が変わっていないのです。
そしてそれは、一般的にバカと言われる人でも、天才と言われる人でも、潜在値という点で、大きな差ではありません。
誰であっても自己の内側に秘めている本質的な資源を深く見つめ直し、自分らしい生き方を再発見する"心理学"という分野に、筆者は大きな信頼を抱いているのです。
そういった意味で、理に適った心理学の学びは、新しい自身を創造することに成功し、これまでの人生では見えなかった新しい景色を見ることのできる扉を開くことができるかもしれません。
そうはいっても、心理学が正しく、他が間違っているとも、やはり言いきれません。
ここからは、心理学の中で筆者の批判したいところであり、実際に心理業界の中で精神力動を重視する心理学分野を批判する人たちが持つ、同様の意見かもしれません。
それは一度暗い闇の底の中で遭遇した危険を避け、やっとの思いで水上に逃げてきたのに、"再び潜れば宝物が眠っている"と言い聞かせられ、何があるかもわからない深い精神の世界に、ガイドと一緒に再びダイブするわけです。
そのガイドが援助を間違えば、過去の痛みを思い出したは良いが、造り直しに失敗するかもしれませんし、長く潜っていること自体が、窒息死させるような苦しみを与えるかもしれません。
心理学の一つの罪はここにあると、筆者は捉えます。
どれくらいの深さにあるのかは不明で、どれほどの時間がかかるのかもわからず、そこにある疲労や苦しみへの配慮に欠けたまま、"尊いから"という理由で、闇雲にただ相手の語る口調に耳を傾ける。
これが精神分析という分野です。
実際には、この分野自体を否定したいわけではありません。
この分野はそういう危険を大いにはらんでいると、そのリスクを伝えたいのです。
そうしてしまう理由はある程度わかります。
おそらくそれは"精神とは、簡単に言葉にしてしまう程、安易な存在ではなく、形にならない美しさが時間をかけて描かれるべきだ"とする芸術的感覚がそうさせるのでしょう。
その意味では、不用意にも深くダイブすることを促すこの手法を、頭ごなしに批判はできません。
ただ、もしその芸術的感覚が問題を逆に複雑化し、解決できない悪循環に陥れているなら、そこは改善されるべきです。
可能であるなら、そこにある代表的なパターンを事前に計算し、効率的に作業が完成される方が良いのは、ある意味当然だと思います。
筆者は、これまでの精神力動説を、精神を尊ぶが故に、この効率化を阻んできたのではないかと捉えているのです。
可能な限り、筆者は幸せに最短な道のりがあるなら、それを手に入れて欲しいと願います。
遠い目的地に向かう時、歩いていくことに価値があるのはわかります。
ゆっくりと景色を見ながら、自分に無理をすることなく、時には途中で出逢う人や出来事を愉しみながら進む。
現代には余計にあって欲しいことだとも思います。
しかし、それは余裕のある旅路だからこその感覚。
もし今何かに苦しんでいたり、誰かとうまくいっていなかったり、現状に疑問を感じていたりするなら、歩くよりも何十倍も速く到達できる乗り物に乗ったほうが、コストパフォーマンスという意味でも、それをわざわざ避ける必要はないのではないでしょうか。
学ぶことも援助を受けることも、結局時間とお金がかかるのです。
どちらにしても、多少の苦労は生じるのだとしたら、筆者はより効率的に到達できるものを勧めたいと思います。
筆者は、こういった課題に対し、これまでに培った知見を集合させ、効率的な精神分析を可能とする方法を編み出しました。
それが、心理カウンセラーなどの専門職が学ぶ為の心理学ではない、一般向け心理学講座です。
上記画像がそのまま講座を紹介しているページへのリンクとなっていますので、パソコンならカーソルをクリック、スマホならば画像をタップしてみて下さい。
1回2時間の心の旅を、筆者がガイドとなって目的地までお連れします。
結果としてどれだけの幸せの質を手に入れるのかは、受講していただいた御本人の向き合い方次第ですが、自己の溶解と再創出というプロセスは、誰もが完遂させることができます。
それだけこのプログラムには、時間をかけ改変させてきた厚みを持たせているつもりです。
公開されているスケジュールで受講いただくか、インターネットのビデオ通話を使った個人受講をご検討下さい。
時間をかけて一つ一つの記事を書いている関係上、更新は毎日ではありませんが、このブログにも、またご注目下さい。
筆者の日頃の文筆活動に注目いただける方や、こういった情報にご興味をいただける方は、無料メルマガにご登録いただけます。
イベント情報のお知らせやブログ更新情報と共に、週1・2回程度、皆様の日常に役立つ心のお話が配信されます。
長い文章をお読みいただき、本当にありがとうございました。
JUGEMテーマ:心理学
筆者のカウンセリングは、心の問題に向き合うだけでなく、今抱えている問題を実際的に解決することを専門としています。
提供させていただいている心理学講座も同様。
今回は、対人関係を整える為の本質的な理論を一つ知っていただければと思い、書かせていただきました。
心理カウンセリングをやっていると、相談者が解決を求めてこられる問題の殆どは人間関係の問題です。
お勤めされている会社での成績不振などが最初の原因で、心理的に追い詰められたという話も、やはりそれを評価した人や、それを見ている人、また家族やパートナーなど、本人を見守っている人などがおりますから、これも人間関係の影響は、案外大きいものだと思います。
誰の目も気にしなくて良いのなら別ですが、実際にはそういうことは少ないものです。
そして人間関係を調整できる能力があることは、会社の経営やマネージャーだけが関係することではなく、家族、友人、恋人、同僚などとの日常に関係します。
私達は、こういったプライベートを基盤に日々の活動をしている筈です。
このプライベートに対して、自分から運命を切り拓く力を持てることは大変意義のあることだと思います。
そしてこの方法を学ぶには、先ず大きなこの考え方を知る上での障害を取り除く必要があります。
その障害とは、コミュニケーションについての認識です。
私達の殆どは、コミュニケーションを相手と意識的に対話をする為のものだと思いがちです。
そしてそこが同時に、最大の誤解なのです。
コミュニケーションは、こちらが意識できていない領域のものが、とても多く作用しています。
その理由は、相手にとって意味があるものは全てコミュニケーションに含まれてしまうという現実があるからです。
自分はただ仕事を一生懸命していただけだったが、相手にとってはずっと"独りぼっちにされた"と思われていた。
忙しくて返信を忘れていたが、相手は"自分を無視している"と受け取っていた。
健康に良いとオーガニックを勧めているだけだったが、相手には不健康な生活を送る自分への"嫌がらせ"だと感じられていた。
上司が部下のことを想って自由に仕事をすることを促していたが、部下の方からは、"ちゃんと指導してくれない"という不満があった。
そんなことは生きてきた中で、いくらでも探せるほど、"心のすれ違い"として起きてきた筈です。
つまり、対人関係において、"自分ではコミュニケーションをとっていると思っていないもの"が、実際には相手に影響を与えてしまうことが多々あるのです。
このことについての解説となるブログを以前に書いてますので、ご紹介させていただきます。
ここまで説明させていただいてきたことこそ、コミュニケーションについての実際と実体です。
もし、人間関係をマネジメントしたり、誰かとの問題を解決しようと思うなら、このことをベースにする必要があります。
しかし、お読みいただいて、なんとなくわかるけど、それを自分に当てはめて、"実際にはどうしたら良いのか"とか、まだちょっといまいちピンとこないという方もいらっしゃるかもしれません。
もし、ご興味をお持ちいただけるようでしたら、それについて、動画で解説させていただきました。
25分程ありますが、とても大切なことですので、どうぞ時間をつくってご覧になっていただければ幸いです。
そして私自身、この理解と能力を心理カウンセリングで活用しており、簡単には解決できないと思われる多くの事例を解決に導いてきました。
パワハラ、不登校や引きこもり、DV、児童虐待、夫婦問題、地域住民とのいやがらせなど。
また、一見すると個人的な問題に感じる精神症状や、謎の神経症状も、やはりこの手法によって解決してきました。
もちろん、全てが順調に解決するというわけではありません。
しかし、これを知っていることは、知らなかった頃には予測することもできないほどの集団マネジメント能力と、問題解決力があることがわかります。
それはまるで、知らなかった頃には、魔法のようにしか思えなかった現実の力を手にすることに違いありません。
もし、ご自身でこの知識と能力を手に入れることにご興味をお持ちの方がいらっしゃいましたら、この講座にお越し下さい。
日程が合わない方は、インターネットのビデオ通話を利用した個人レッスンも可能です。
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JUGEMテーマ:コミュニケーション
人にはそれぞれ生きているフィールド(環境)があります。
しかし、自分が心から認められ、自分らしく能力を発揮しつつ、そこにやりがいを見出して存在していられる場所は、必ずしも多くはないではないでしょうか。
そこで今回は、心理学講師の一人として、環境に合わせつつも、自分らしさを失わずに、生きる方法について、書かせていただこうと思います。
よく、誰かを助けたいと思うとき、"貴方らしくもない"というような言葉を耳にします。
それは当の本人が、普段相手に見せている雰囲気とは違う何かを意味しているのだと思います。
しかし、この"貴方らしい"という響きは、一体どんな性質を指して言っているのでしょうか。
以前、看護師のお仕事をされている方のパーソナリティ(性格)を、講座で紐解いたことがありました。
彼女はとても周囲に対して積極的ですし、とても気遣いを意識していることが、その言動からよくわかる雰囲気の方です。
それはある意味、彼女を深く知らない人にとって、"彼女らしい"という状態であると予測されます。
人間には、それがどのような人であっても、他者との関係を一定に保つ為の仮面的な心理が存在します。
これをユング心理学(分析心理学)では、ペルソナ(仮面心理)と呼ぶそうです。
私は、"その雰囲気はいつ頃から始めたものですか?"と問いかけてみました。
彼女は少し考えた上で、"大学の頃からのような気がします"とのこと。
私がここでお話したいことは、自分が今の自分らしい雰囲気を身に着けたのは、必ずしも生まれた頃からではないということです。
そこには、何か理由があるのでしょうか。
"そういう雰囲気になる前、貴方はどんな人だったんですか?"
そう訪ねてみます。
彼女はまた少し考えて、"もうちょっと気の弱い感じだったような気がします。周囲のこともあまり気にしないというか…"と言われます。
大人になっても、こういった性質の人は居ます。
でも彼女はその性質を捨てたのか、隠したのか、どちらにしても表に出すことをやめ、現在のような雰囲気になったようです。
ということは、どうやら必ずしも皆が同じ人間的成長をしていくという話にはできないようです。
どちらにしても、どうして人は変わってしまうのでしょうか。
性格という言葉には、捉え方が大きく二つほどあるようで、一つは、人は固定的な性格を持っているというもの。
もう一つは、人は誰と居るのかによって性格が変わるというもの。
前者は、人は生まれながらに持っているものが発揮されていると表現しますし、心理学的にこの流派は、セラピーにおいて本来の自分に戻していくようなアプローチをします。
後者の心理学派は、人の性格は常に今共に過ごす人との関係を調整する為に変化するという考え方ですので、今共に過ごしている人との関係に焦点を当ててアプローチます。
しかし、私はそのどちらでもあるように感じています。
やはり当人が大体どこに行っても見せている雰囲気というのはありますし、かといってプライベートで過ごしている家族と、公に見せる職場などでの雰囲気が変わるのもまた当然です。
どちらにしても、そういった今の自分全体を指して、"貴方らしさ"と表現することはできるでしょう。
先程の彼女に、"何をきっかけにそういった性格になっていったのか、出来事を思い出せますか?"と尋ねてみました。
当初"そんなことはなかったような…"と言いつつも、私からいくつかの質問を繰り返していくと…
"実はその頃に家族関係の変化がありまして…"
重たそうに口を開いた彼女からは、当時の家族関係の変化が語られました。
突然に語られる過去の出来事に、共に参加した参加者達も息が詰まります。
私からは、こう返しました。
"たしかにその時のご家族との関係を考えると、現在のような見せ方を手に入れることは仕方がなかったと思います。ただ、ここで扱いたいのは、今になってその頃の自分に戻れるとしたら、本当にはどうしたかったと思いますか?ということです"
彼女から一筋の涙がこぼれました。
その後に出た言葉は、
"本当は助けて欲しかったんです…"
私からもう一つ質問しました。
"貴方はその言葉、普段からあまり使えないということがありますか?"
彼女は即座に答えます。
"もちろんです。助けてなんて簡単に言えません。"
"もちろん?どうして助けてっていうことはおかしいと当たり前のようにおっしゃるのでしょうか。"
"あ!"
実はこのことが、彼女の職場でも関係していました。
もっと自分の後輩などとも距離を近づけたい。
仲良く仕事をしたい。
しかし、いつの間にか彼女はお局様となり、若い看護師達などからは嫌厭される存在になってしまっていたのです。
何も自分から距離を置いて、冷たい関係になりたいわけではない。
少なくとも意識的には…
それをしていた彼女のパーソナリティを良く言うなら、"責任感"であったと想像できます。
最後に私が伝えたのは、
"もちろん、すぐにそういう人になりましょうと言っても無理があるでしょう。しかし、今日話したことは、これからの貴方が、貴方らしさを取り戻すヒントになる筈です。"
ということでした。
実際、そこから彼女の職場環境(人間関係)は、少しずつ変化が始まりました。
ここまでのストーリーをお読みいただき、"自分らしさ"について、どのように感じられたでしょうか。
自分らしさとは、普段よく人に見せている部分なのでしょうか。
逆に、いつも表現せず奥に隠している心理を意味するのでしょうか。
それとも、もっと無意識的な領域に存在するものなのでしょうか。
もしかすると、内部にはない新しい何かが加わることで、本当の自分が手に入るのでしょうか。
筆者はこう考えます。
そのどれが本当の自分なのだと決めつけるよりは、どれも自分とその一部なのだということです。
そうなのであれば、今の環境に合わせて、自分を分析・分解・再統合し、新しく創り出せることこそが、自分らしさを失わずに生き抜く方法なのだと思うのです。
そしてできれば、一時的でその場限りの自分づくりであってはならないと思います。
そういった方法論自体を学び、手に入れてしまえば、今後の人生全体に大きな好影響が望めるかもしれません。
筆者のアプローチは独自のものですが、こういった心理の学びは多くの場所に存在していると思います。
こういうことにご興味をお持ちの方は、是非近くのそういう機会を見つけ、取り組んでみていただければ、これからの未来に、何か特別なボーナスがあるかもしれません。
一応、筆者の提供するこの分野の心理学講座も紹介させていただきます。
ご興味のある方は、どうぞご覧下さい。
7月開講講座もありますので、平日昼間ではありますが、ご都合を合わせられます方は、受けてみていただきたいと思います。
初回のみ体験参加も可能です。
先日、筆者がこれまで主催してきた心理講座を、一つの統一論的にお伝えする『心を学ぶ入門講座』を初開催させていただきました。
講座ではここまで書いてきた話の土台となるような、心理学といっても代表的なアプローチがいくつも存在し、そのサンプルを紹介しつつ、実生活に即活かせるものも、積極的にお伝え致しました。
ご感想もいただいてますので、ご紹介したいと思います。
「力動論と行動論について、学び、知識を整理することができました。また、異性との統合については、日常の中で以前から問題意識があったので、有益でした。」
「何だか自分を知りたい、相手を知りたい、その思いから参加をしました。
今までとは違うアプローチに、日常の生活に即取り入れられる、又、講座の中で様々なこと(記憶)が蘇ってきて、自らに笑えました。ありがとうございました。」
「ゲシュタルト認識=記憶と体験から成り立っていることがなるほどと思った。相手の話を聞くとき、どのような認識を持っているのかと観察しながら聞こうと思います。」
それぞれに得ていただいた視点が違うのも、開催する筆者側としては嬉しいところです。
実のところ心理学といっても、大変多くのものがあり、それが自分が求めているものに直結するのかどうかは、運次第のようなところがあります。
この講座開催に込めた願いについては、筆者が動画を撮影させていただきましたので、ご覧いただけましたら幸いです。
心理学をこれから学びたい人の為に、遠回りせずにご自身の求めているものへ近づくことができるよう願っております。
前述の心を学ぶ講座 心理編〜自己の旅〜などは高額ですぐには手が出ないという方もいらっしゃるかもしれませんので、その場合、こういう講座で少し内容をかじってみていてだければと思っております。
私の近況は、主にFacebookとメルマガにてお伝えしておりますので、どうぞこちらの無料メルマガをご登録下さい。
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JUGEMテーマ:自分のこと
筆者が主宰するプロ心理カウンセラーを養成する講座(心匠セラピスト養成講座)の2期、同時期に修了した。
すぐに次の10期が開始となるが、次期開講前に、改めて私が想うところの『心を鍛える』ということについて、まとめておきたい。
"心匠"とは、鍛え上げられた心を持つ人ということ。
心匠という言葉は、筆者が独自に使い始めたもので、なんでも巧みの技を持つ人には、刀鍛冶の名人に"刀匠"と名が付くように、心理の匠を目指した名称です。
ある意味、志を言葉に変えただけのことで、筆者自身をそう思っているということはもちろんありません。
ただ、心理カウンセラーを養成するに当たっては、何が心の匠なのかについて、その概念を伝える必要性も感じています。
心理カウンセラーの養成をしていると、時々受講生から尋ねられることがあります。
「自分はうまく話せないので、話を聞きっぱなしになるのですが、どうしたらちゃんと話せるようになるのでしょうか。」
心理カウンセリングと言っても、話を聞くだけではうまくいきません。
やはり、何か意見を求められることもあります。
もし、この記事を読んでいただいている方ご自身が、心理カウンセラーをされている方であれば、こういった質問がそれほど違和感のあるものではないと思うかもしれません。
JUGEMテーマ:目指せ、セラピスト